売上が伸びない。社員が動かない。孤独。
その全部を、島田も通ってきました。
年収200万の番頭が、5年で売上5倍を達成し、今では100社の売上に貢献するまでに至った経緯です。
今となっては3法人を経営する立場になりましたが、最初からそれを狙っていたわけではありません。
そこには窮地に立った時の努力と多くの人の縁がありました。
売上が伸びない。社員が動かない。孤独。
その全部を、島田も通ってきました。
年収200万の番頭が、5年で売上5倍を達成し、今では100社の売上に貢献するまでに至った経緯です。
今となっては3法人を経営する立場になりましたが、最初からそれを狙っていたわけではありません。
そこには窮地に立った時の努力と多くの人の縁がありました。
振り返ってみると、仕事のスタートから絶望的な環境でした。
実家は奈良県御所市の畳店です。大前研一さんに「日本で最初に破産する自治体」と言われた街。小学生の時から畳づくりを手伝い始め、中学生の時には採寸から納品まで一通り任されていました。
祖父の勧めもあり、大学では経済学を専攻しました。教員免許を取るために社会学も受講して、人の2倍の単位を取得。祖父の勧めで建築士や施工管理技士、宅地建物取引主任者さえ取得しました。「なんでこんなに取るんだ」と自分でも思っていましたけど、後から全部仕事に活きました。建築士としてドラフターを使って手作業で図面を描いた経験は、のちにMacでデザインする上で欠かすことのできないノウハウになりましたし、一見関係のない宅建の免許も民法の基礎を学ぶことができ、支払いを渋る会社の取り立てに活かされました。人生は順列組み合わせ——思いつく限りの手法を試せば、必ず答えが見つかります。
ナイトクラブでギターを弾いたり、お世辞にも立派とは言えない卒業後の過程を経て、4代目として家業に入りました。ただし社長は父親です。自分はナンバーツーの番頭でした。
実家に入るわけですから、OJTも入場教育もありません。規律は自分で築いていきました。入社して最初にやったことは、父親を「社長」と呼ぶこと。
ケジメと線引きです。会社の中では親子じゃなく社長と番頭です。その境界線を自分の側から引きました。プライベートでも父親として接しませんでした。父親が引退するまで、ずっとです。
人前では社長に絶対に逆らわないNo.2像を徹底しながら、実質的な経営判断は全て自分が握っていました。人生のどの場面でも親に甘えることがあっては気が緩む——そう自分を戒めていました。
しかし、このままでは会社が持ちません。親父は自分の店だとばかりに経費を湯水のように使う。毎月聞いたこともないスナックからの請求書が届いていました。そんな金額も積もり積もって毎年1000万単位。それを諌めるのもお金を管理する番頭の仕事でした。
働いても働いても現金が消えていく状況では会社が潰れてしまいます。このままではいけないと父親に「全員の給与を減らし、会社を立て直そう」と何度も懇願しました。その時に父親が私に見せた憎しみに溢れた表情。その理不尽さは今でも忘れることができません。
そんな経緯もあり、年収が200万しかなかった時期があります。奥さんはスーパーで菓子パンを買いたかったけど散々迷って、節約のために食パンを涙ながらに選びました。子供はまだ小さかったんです。
なんとか会社を建て直さないと、思いつく限り様々な施策に取り掛かりました。ニュースレターや広告は全て自作、Webサイトのコーディングすらやりました。商品のカタログも作っていたり、デザイナー兼番頭兼現場担当者兼経理という状態がしばらく続きました。そのため労働時間は自然と伸びていきます。
朝8時から夜中の3時、4時まで。年間5000時間の残業です。
それだけやっても売上は横ばいで先が見えませんでした。
外から見たらブラブラして頼りない息子が実家にいてる、番頭みたいなことをやってるらしい、そう見えていたと思うんです。しかし番頭の仕事って華やかな表舞台じゃないんですよ。
管理、クオリティチェック、請求漏れの確認、報告の徹底。地味で、誰も褒めてくれない仕事の積み重ねです。
誰がとってきた案件なのか、納品したのに代金を払ってもらえないことも一度や二度ではありませんでした。しかも相手は反社会的な人。そんな状況で取り立てに行かされるのも、決まって責任者として向かっていくのは番頭の私でした。
帰り道に、普段飲まないワンカップのお酒を飲みながら天を仰ぎました。がむしゃらにやっても現実は変わりません。逃げたくなる夜は一度や二度じゃありませんでした。
それでも挫けなかった原動力は二つあります。一つは自分の能力を証明したいという気持ち。もう一つは、これで結果を出せなかったら後がないという現実です。
あるとき工事保険の営業に来ていた保険屋さんから、いろいろ取り組むなら読んでみたらと渡されたのが神田昌典先生の『あなたの会社が90日で儲かる』でした。それがきっかけで様々な書籍を読み漁りました。社会経験の少ない自分に欠けている部分だったので、吸収するのに必死でした。
お金がなかったのでブックオフに行ってはカゴいっぱいに本を買い込みました。それこそ棚の端から端まで。古本だからできたことですね。そしていろんなジャンルの本を片っ端から読み漁りました。マーケティング、営業、心理学——使えそうなものは何でもよかったです。しかし家には本棚も置き場所もなかったので、読み終わると奥さんに連れられてまたブックオフに売りに行かされたものです。そしてまた買う。その繰り返しです。
しかし、もちろん本だけ読んだって何も変わりませんよね。
だからチラシを作りました。本で学んだことを全部つぎ込んで、自分なりに組み立てた一枚です。
ところが社員全員に反対されたんです。「チラシなんか出したら、仕事がない会社と思われて恥ずかしい」と。
手伝ってくれないだけならまだしも予算は降りないし、そんなことをするなと邪魔をされる始末。夕暮れ時から一人で自転車を漕いで、チラシを配り回った時には犬には吠えられるわ、玄関先に出てきた人に胸ぐらを掴まれて怒鳴られるわと散々な目に遭いました。
夜中に一人で机に向かって切手貼りをしている時は「何でこんなことしてるんだろう」と涙が出そうになりました。
そうして涙ぐましい努力をしてまで自分で配った最初のチラシ、反応はゼロでした。
しかし失敗上等、それでも挫けませんでした。
何がダメだったのか考えて、チラシを作り直しました。配り方を変えました。また反応を見ました。ポスティングだけじゃないんです。お客さんに手紙を書いたり、アンケートをいただいたり、新しい商品のモニターになるように頼んだり、ミニコミ誌広告を出したり。会社から経費が出なかったので、収入が少ない中でも自腹で、何とかできる順に取り組んでいきました。
そうすると徐々に結果が出始めました。最初に差が出たのは繁忙期の受注が増えたことです。やがて閑散期も予約で埋められるようになるのですが、それはまだ後の話です。徐々に仕事が増えていくと職人さんの態度が変わってきました。ヒマになって仕事がなくなる不安がなくなると職場の空気も良くなり、あれだけ反対していた社員が、率先してチラシ配りを手伝ってくれるようになりました。
それから個人客から1000万円規模のリフォーム注文が入るようになりました。多店舗展開、バックエンド商品開発、高価格化——増販ノウハウを一通り、自分の手でやりました。
振り返ってみると、5年で売上は5倍になりました。
これは単に「一冊の本に感動して人生が変わりました」という話じゃないです。片っ端から読んで、片っ端から試して、うまくいったものだけ残しました。全員が反対しても、結果が出れば人は変わります。でも結果が出るまでの間は一人です。その孤独に耐えられるかどうかなんですよ。
売上5倍の実績を買われて、畳機械メーカーから講演を頼まれるようになっていました。アマチュア講師のつもりでした。本業はあくまで店の経営で、講演はおまけです。
しかし講演活動を通じて、業界の裏側を知ることになります。
大手コンサルティング会社とメーカーが手を組んで、下請けの事業者に高額な機械を導入させるビジネスモデルが横行していました。コンサルが「この設備を入れれば売上が上がる」と後押しして、事業者は数百万、時には数千万の借金を背負います。そしてその借金を返すために家族ごと消耗していきました。
過労死する人が出ました。自分で命を絶つ人も出ました。
それなのに、メーカー側の人間がその話を笑い話にしていたのを、私は直接見ています。
その場で怒りが湧いたかというと、そうではありませんでした。呆然としていた、というのが正確な表現です。しかし後になって、他の人からも似たような事例を又聞きしました。自分が聞いたのは偶然ではないと悟りました。業界の構造として、これが起きている。そう認識した時に、怒りに変わりました。
「売り上げを上げる経営コンサルが、人を不幸にしてどうするんだ」——これが私の全活動の原点にある言葉です。
業界の闇を知った上で、もう一つの衝撃が待っていました。
仲間数名と、ビジネスプランを練る合宿をやろうという話になりました。日本から離れて、非日常の中で知恵を絞りたかったんです。参加者の投票で、偶然選ばれたのが台湾でした。
合宿の合間に、仲間のリクエストで現地の同業者を訪ねることになりました。
正直、タカをくくっていたんです。同業者と言っても台湾だし、さぞ厳しい状況なんだろうと。惨めな光景を覚悟していました。
しかし、現実は想像とまるで違いました。
その業界の9割が、台湾では既に消滅していたんです。
生き残っていたのはトップ10%。技術一流、販売一流、集客も手を抜かない。そういう事業者だけが残っていました。残った台湾の畳屋さんは、戦略的にも、資材が日本から来ない状態でも手元の材料で何とかする技術的な逞しさも、あらゆる面で日本が劣っていました。
自分たちはあまりにも恵まれた環境でぬるま湯に浸かり続けていたんです。
「これが10年後の日本なんだ」——吐き気を催すほどの危機感でした。
合宿講座はみんなが苦労しながらもゴールに辿り着きそう、そんな兆しが見えた夜に事件は起こりました。セミナーが終わった後、参加者に軟禁されたんです。
「俺たちを見捨てていくのですか?」「お前はこの講座が終わったら俺たちを見捨てて日本に帰ってしまうんだろう。日本に帰っても俺たちの面倒を見てほしい。イエスと言うまでこの台湾から帰さない」
正直なところ困っていました。突然訳のわからないことを言われても、という気持ちでした。「合宿の補講という形で講座を設定する」と約束して、なんとかその場をしのぎました。
帰国後、業界の重鎮に相談しました。参加したみんながおかしなことをいうんですよねと。僕はその時、重鎮も「おかしなことを言うよね」と同調してくれるとばかり思っていました。しかし熊本の勉強会の帰り、車の中。人里離れた峠道に差し掛かった時、その方は静かにこう言ったんです。
「あなたのお母さんはあなたを理解しないまま死んでいくでしょう。あなたのお父さんはあなたを恨んで亡くなってしまうかも知れない。しかし島田くんはもう戻れない道を歩みはじめてるのがわかる?」
そして、こう続けました。「イエスというまでこの車を降ろさない」
台湾でも日本でも、軟禁される運命らしいです。
ただし、英雄的な決意があったわけじゃありません。頼まれたら解決策を考えるタイプなので、環境に合わせていきました。それが実態です。使命が降りてきて一念発起、という綺麗な話ではなくて、周囲から求められて、断れない状況が重なって、気がついたらこの道にいました。
こうして中小企業を支援するという道が決まりました。しかし独立には家族の覚悟が必要でした。
奥さんからは「たとえ失敗しても2度と会社には戻るな」と言われました。もし収入が300万円を切るようなことがあったら、中古トラックを買ってたこ焼き屋をしよう。建築士も宅建も持っていたから、不動産会社に入社して営業マンをしよう。とにかく畳屋に戻らない約束をしていました。
菓子パンを涙ながらに諦めた奥さんが、それでも背中を押してくれました。
妻の後押しで独立しました。
朝8時から夜中の3時4時まで休みなく働く暮らしをやめた途端、年収が2倍に上がりました。残業5000時間して年収200万だったあの頃のことを思い出します。努力と成果は一致しないと後になって思い知らされました。これも経営と同じで、がむしゃらにやることと成果が出ることは全然違うんです。
2014年、TKCビジネススクールをスタート。全国5クラスで中小企業の業務改善に取り組み始めました。
人脈ゼロ、知名度ゼロ、実績ゼロ。受講者同士が仲良くなるだけで結果が出ないコミュニティが多い中、売上向上率90%オーバーの企業学習グループを築き上げました。
今でこそ社会起業家と呼んでいただき、いろんな事業をさせていただくまでになりました。しかし最初から正解を知っているエリートでは決してありません。チートのような手法で流行に乗ってきたわけでもありません。
派手なカラクリがあるわけじゃないんです。10年間コツコツ続けてきました。地べたを這いながら一社ずつ出してきた数字です。
「コンサルって、自分で経営したことあるの?」——よく聞かれる話ですよね。
本当にそういう人が多いんです。コンサルとはよく言ったもので単なる助言者。自分はやっていませんという人ばかり。だから僕はコンサルタントというセルフイメージも肩書も持っていません。現実に企業を経営している仲間の一人だと自負しています。今経営している会社は3法人、事業はさらに複数に分かれます。
合同会社マイスターサポート 代表社員
1974年生まれ、奈良県御所市出身。
障がい者就労継続支援A型事業所。2016年10月設立。大阪市天王寺区生玉前町1-21(谷町九丁目駅 徒歩1分)。
4部門——WEBコンテンツ制作、カスタマーサポート、広告デザイン、アプリ開発(FileMaker/Swift)。約30人規模。ノルマなし、残業禁止、最低賃金以上の給与を保証しています。
国家資格保持者(柔道整復師・鍼灸師等)限定の経営支援コミュニティ。代表: 松村正隆(兵庫県西宮市)。RMMSのノウハウを治療院業界に応用する形で、理事として参画しています。
自分でも数十人を率いて経営しているから、相談される時に現場の空気がわかります。口だけの人間には見えないものがあるんです。
RMMSの運営方針は、コンサルの教科書から引っ張ってきたものじゃありません。自分が痛い目を見て、迷って、ようやく辿り着いた答えです。
人が死んでいるのに笑い話にする人間を見ました。だからRMMSは「労働時間を減らしながら売上を伸ばす」にこだわっています。売上を上げることは難しくありません。人を死ぬほど働かせればいいんです。でもそれは経営改善ではありません。搾取です。関わる人を不幸にしない——ここを出発点にして方法論を全部組み立てています。
年収200万の番頭時代、奥さんは食パンを涙ながらに選びました。父親との対立もある。そういう状況で「経営の話と家族は別だ」と言われても、実行できるはずがないんです。だからRMMSの経営計画合宿では、プライベートの問題も扱います。「親父に頭を下げる」「妻にこう伝える」——そういうことを経営計画に書き込みます。
チラシを配っていた時期、もっとも孤独だったのは「反対してくる社員」じゃなかったんです。「慰め合うだけで何も変えない仲間」でした。そっちの方が、ずっとこたえた。だから「できない言い訳を慰め合う場所」にはしたくない。RMMSが言う「仲間」は、「それ、違うんじゃないの」と言い合える人のことです。
本で読んだことを全部試しました。片っ端から試して、一人で夜中に切手を貼り続けた。最初のチラシの反応はゼロでした。だから知識を渡して「あとは頑張ってください」——そんな支援を自分がされていたら、今のRMMSはなかった。1dayセミナーで知識を入れ、問題解決ワークで実践し、電話相談で個別に対応し、実行力サポートで伴走する。どの段階でつまずいても受け止める体制にしています。
経営の問題は、数字だけ見ても本当のところはわかりません。現場に行って、社長と話して、従業員の顔を見て、初めて見えてくるものがあります。オンラインだけでは拾えない空気感や背景事情が必ずあるんです。だからRMMSは対面を重視しています。
畳屋の番頭をやっていた頃、業者との取引でよく見た光景があります。何にいくらかかるのか最後まで教えてもらえない。何にいくらかかるのか見えない状態で経営判断はできません。隠すということは、後ろめたいことがあるということです。プレミアムコース月額5万円、スタンダードコース月額3万円。書きました。それだけのことです。だからRMMSは価格を隠しません。
入会者を増やせば、それだけ収入が増えます。でもそれをやると、場の空気が変わります。本気でない人が増えると、本気の人が損をする。本気でやる人だけを全力で支える場所にしています。年に4回以上参加できないなら、入会しない方がいいとお伝えしています。参加状況によっては退会を促すこともあります。会員を増やすことが目的じゃないんです。
年収200万の番頭時代。年間5000時間の残業。反応ゼロのチラシ配り。人の死を笑う業界の闇。台湾で見た9割消滅の世界。全部、自分が通ってきた道です。
労働時間を減らしながら売上が伸びる。この経営手法を中小企業の「当たり前」にしたい。それがRMMSのミッションです。
何が問題で、どこから手をつけるべきか。無料相談で一緒に考えましょう。
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